good night

「入るよー」
私がいつものように合鍵を使って恭一の家に入ると、リビングのこたつで恭一が蜜柑を食べていた。
「ふぁっほー、ひひう」
一個まるごと(もちろん皮はむいてある)。なんとか「やっほー、みちる」と言っているのは理解できた。
「ひはぁ、ひっははらひほはほひはんはへと、ほへはふあうへはー」
長文は無理でした。
「ちゃんと食べ終わってから話せ!行儀悪っ」
「ははひはひは」
了解したらしい。
 彼が口をむぐむぐさせ始めてから数秒後、ようやく蜜柑を飲み込んだ。
「いやあ、実家から一箱来たんだけど、これがうまくてさー。あ、みちるも食べる?」
「…うん。ところでさぁ、何で蜜柑まるごと?」
「口に入るかと」
「おいこらちょっち待てー!」
「眺めてたら入るかな〜入らないかな〜っておかしな歌が脳内に響き始めてさぁ」
「ばかー!小学生かよあんたは」
「まぁいいじゃん。あ、そうそう」
……こいつあっさり私の話題を流したな。
「そろそろ冬眠するから」
「あ−、もう一月だもんね。買い出しに行かないと」
「そうだねー。流石にカレー一週間は飽きたな」
こんにゃろ。とりあえずさっきの事も含めて蹴りを一撃。
「う…すみません。できれば違うものでお願いします」
「うむ。考えておこう」

    
 私と恭一が出会ったのは二年前のことだった。その頃、私は近所の喫茶店でアルバイトをしていて、彼はそこの常連客だった。いつも窓際の席に座り、裏メニューのマスターの奥さんの手づくりケーキを注文した。そして時折、外を眺めながら何か呟いていた。
 私は何を言っているのか気になって、とうとうある日、彼に尋ねてみた。
「すみません…」
「えっ!な、何ですせうか?」
あなた、何時代の人ですか?私何かしましたっけ?変な人だよ−
「……………………いつも何を呟いてるんですか?」
「えっ、あ、あれか。あれは『So many men have so many minds.』だよ。確か十人十色みたいな意味だったかな…」
「あ、そうなんですか。ありがとうございます」
それでは、と私が去ろうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「はい?」
「いつもありがとう。それじゃ僕はこれで」
「あ、どうも…」
あ、ちょっとかっこいいかも。
           

その三秒後。
「文庫本忘れてました…」
やっぱりどこか変な人だ。


 それがきっかけで、彼と少しずつ話すようになった。そしてある日、私がいつものように紅茶とケーキを運び、立ち去ろうとしたとき、彼に呼び止められた。
「あの……」
「何ですか?」
 振り向くと、彼は小さな紙切れを無言で差し出した。私が受け取ろうか受け取るまいか考えていると、他のテーブルから呼び出されてしまった。
「はい!今行きます。…すみません」
そう言うと、私はそれを受け取ってエプロンのポケットに仕舞い、そっちに向かった。その後ちらっと窓際を見ると、いつの間にか彼はいなくなっていた。
 
その日はもう一人の大学生のバイトさんが休みだった為、私がメモの事を思い出したのは仕事を終えて着替えるときだった。開いてみると、お世辞にもきれいとは言い難い字で、こう書かれていた。


『午後五時に喫茶店の近くにある公園に来てください』

時計を見ればもう五時四十分。大遅刻だ。
「やばっ!」
慌てて帰り支度をすると、お店を飛び出した。




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